『正しく生きる』の 取材余話(立石泰則氏 寄稿)~10

第四章 創業者と二代目社長

 私は『「がんばらない」経営』を上梓したあとも、ケーズデンキの経営で気になっていたというか、いまひとつ分からないことがあった。それは、二代目社長の加藤修一氏が父でもある創業社長の馨氏の「創業精神」や「経営理念」をどのように引き継ぎ、そしてそれを自分のものにしていったか、つまり血肉化していったプロセスである。一方、創業社長の立場からするなら、いわゆる「帝王学」を馨氏が修一氏にどのような方法で伝授したか、つまりその方法とプロセスになる。

 しかし馨氏は「(修一氏)本人は、後を継ぎたいとか商売に関心があるとか、私には何も言わなかった」と説明し、後継問題については修一氏と改めて話し合うようなことはなかったという。つまり、修一氏に社長の椅子を譲るさい、馨氏は事前に何ら相談等もしなかったということになる。ただ馨氏によれば、修一氏が親の後を継がなければならないような仕組みを作り、自然にそうなるように仕向けていたという。それが、具体的にはどのようなことを指すのかは言及されなかった。

 それに対し、修一氏によれば、家業の商売に興味を持つようになったのは、父・馨氏と一緒に東日電の勉強会に参加したり、父の代理として出席した勉強会で学んでいた時だったという。とくに勉強会の講師だった経営コンサルタントの藤田昭氏の「これからの家電産業の未来は明るい」という話を聞いたとき、大学生だったにもかかわらず、父親の会社(電気販売店)にすぐに入りたいと思ったほどだったとか。それゆえ、修一氏は「父親の跡を継ぐかどうかで迷っていた私の背中を押したのは、間違いなく藤田先生のこの話でした」と断言する。つまり、修一氏は父・馨氏が起業した「加藤電機商会」を継ぐつもりで入社していたのだ。

藤田昭氏の言葉が刻まれたプレート
コンサルタント・藤田昭氏の言葉が刻まれたプレート
いつも若い人達を危険視する考え方がある
(このままで行くと日本は大変なことになる)
しかし、人類は幸いにも絶えず進化歩を続けて来ている
人類の明日が限りない可能性に満ちていることを確信
したからこそ、我々はここまで来たのではなかったか?

 私がまず疑問に思ったのは、修一氏が父の後を継ぐ決心して入社したにもかかわらず、馨氏が修一氏の決意を知らなかった、気づいていなかったと語っていることである。つまり、創業者の父と後継ぎになる決意をした息子の間には、会社にとってきわめて重要な後継者問題についてコンセンサスらしきものは、事前になかったことになる。当初私は、そんなことがあり得るのかと信じられなかった。

「カトーデンキ創業30周年記念祭」の集合写真
1997年3月17日、水戸京成ホテルで開催された「カトーデンキ創業30周年記念祭」
中央に加藤芳江さん、加藤馨氏、加藤修一氏、加藤幸男氏が並ぶ

 というのも、私は40年に及ぶ企業取材を通して、経営の安定と継続のためには後継者選び、つまり後継問題がいかに重要かを思い知らされる場面に数え切れないほど遭遇してきていたからだ。とくに創業社長が我が子に社長の椅子を譲る、いわゆる「世襲」を行うさい、それまでの幹部に納得させるには創業精神や経営理念などがきちんと引き継がれていることが欠かせない。言い換えるなら、創業者から帝王学を十分に学んでいることが絶対条件なのである。そうでない場合、必ずといっていいほど「お家騒動」が起きて、会社は弱体化してしまう。

 ケーズデンキの場合、その点が曖昧のように私には見えたのである。
 ただし修一氏によれば、広告にしろ何にしろ馨氏が担当していた業務を自分もやりたいと言い出せば、馨氏は修一氏にやらせたうえに二度と担当することはなかった、という。つまり、社長の権限を譲っていったのである。

「カトーデンキ創業35周年祭」の集合写真
1982年4月22日、サンシャイン常陽で開催された「カトーデンキ創業35周年祭」。
1980年に社員を株主とするカトーデンキ販売を設立。
創業35周年記念祭の1ヶ月前に加藤馨氏は社長の座を加藤修一氏に譲った。
社員数も5年で大きく増えている

 このようにして馨氏の担当業務を次々と引き継いでいき、修一氏が35歳の若さで社長就任を馨氏から言い渡されたとき、出店業務以外の社長の権限はすべて引き継いでいたという。そのため、社長に就任してからも、修一氏はそれまで通りの日常業務を続けるだけであった。つまり、社長就任以前から実質的な社長業を務めていたのである。その意味では、シームレスに社長の権限を移行させた馨氏のやり方は、彼独自の「帝王学」と呼べるものだったかも知れない。

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