『正しく生きる』の 取材余話(立石泰則氏 寄稿)~9

 水戸街道に戻ってさらに30分以上東京に向かって歩くと、加藤馨氏の最後の職場となった「陸軍電波兵器練習部」(当時は長岡村、現・茨城町)があった場所に辿り着けるが、これからの取材日程を考えて無理をせずに次の機会を利用することにした。

 5月中旬のある日、私は4月に断念した電波兵器練習部跡を改めて訪ねることにした。ただしそのさい、直接向かうのではなく、水戸街道沿いの加藤馨氏縁の場所も一緒に回ることにしたのだった。その巡回を私は密かに「水戸街道巡り」と名付け、最終目的地を「電波兵器練習部跡」にした。

 ところで、水戸街道は江戸時代から江戸と水戸を繋ぐ主要道路であった。江戸時代に開通したもので正式には「江戸街道」であるが江戸から見て「水戸街道」とも呼ばれるようになった。ちなみに、水戸街道は「備前堀」から始まるという。備前堀は水戸市内を流れる用水路であり、桜川から取水し涸沼川まで流下することで二つの川を結んでいる。

備前堀にかかる銷魂橋
江戸へ向かう水戸街道の起点である銷魂橋(たまげばし)。水戸を去る人々が、この橋で別れを惜しんでいたことから、徳川光圀が銷魂橋と名を改めたという
桜川と涸沼川を結ぶ備前堀
水戸藩初代藩主徳川頼房公の時代、灌漑用水と桜川・千波湖の洪水防止のために伊奈備前守忠次(ただつぐ)に命じ築かせた用水堀。桜川と涸沼川を結ぶ

 そこで私は、水戸市南町の備前堀にかかる「銷魂(たまげ)橋」を渡ることから「水戸街道巡り」を始めることにした。この周辺は、江戸街道を下ってきた人には水戸の終点であり、かつては繁華街で賑わった地域でもあった。銷魂橋を渡って水戸街道を道なりにしばらく歩くと、右手に吉田神社の大きな鳥居が見えてくる。加藤馨氏と川澄芳江さんが結婚式を挙げた神社である。本殿を始め吉田神社そのものが小高い丘の上にあるため、参拝するには長い階段を登らなければならなかった。改めて水戸は神社仏閣が多く、しかもその多くが平地に少ないことを実感させられたのだった。

 階段を登って境内に入ると、閑散としていた。名物の「枝垂れ桜」は3月が花見のシーズンなので、5月に訪れた私は間抜け以外の何者でもなかった。本殿まで進み、お賽銭をあげて参拝した。境内には参拝者は私ひとりだけであったが、清掃は隅々まで行き届いており、さすがに名の通った神社だと感心した。

水戸街道を進むと現れる吉田神社の鳥居
水戸街道を進むとすぐに現れる吉田神社の鳥居。
吉田神社は加藤馨氏が芳江さんが結婚式を挙げた場所
吉田神社の拝殿
名物の「枝垂れ桜」は3月が見ごろ。訪れた5月は境内は閑散としていたが、
隅々まで清掃が行き届いており、さすがに名の通った神社だと感心した

 馨氏と芳江さんの結婚式は、昭和20年4月18日である。日本の敗戦は約4カ月後に迫っている。そんな緊迫した中で、馨氏はどんな気持ちで結婚式に臨んだのだろうか。暗号班長を務めた馨氏には、大本営発表がウソだらけで、日本軍が連戦連敗を続け日本の敗戦の日も近いことは分かっていたはずである。なのに……そんなことを考えながら、私は境内をしばし散策した。

 水戸街道に戻り、東京方面に向かってしばらく歩くと右手には、先日訪ねた元台町の最初の店舗兼住居跡、つまり3階建てのアパートが見えてくる。歩くことで初めて、結婚式を挙げた吉田神社と最初の店舗の距離が意外と近かったことが分かった。

 元台町の店跡を通り過ごして水戸街道を上っていくと、「一里塚跡」に着く。
「一里塚跡」の石碑の傍には、「江戸街道と一里塚」の表題とともに江戸街道の絵図とそれを解説した看板が建てられていた。

元吉田の一里塚
水戸街道を銷魂橋から出発して最初の一里塚。
後ろに見えるのは一里塚の道標として植えられた榎(エノキ)
一里塚の案内板
「江戸街道と一里塚」の案内板。水戸から見ると江戸街道、
江戸から見ると水戸街道と呼ばれた

 一里塚跡から30分ほど歩くと、水戸市を抜けて「東茨城郡茨城町」に入る。そして水戸街道は、水戸バイパスと合流して一本になる。水戸街道は道幅が狭く、歩きやすかったが、水戸バイパスはダンプカーなど大型車両が頻繁に猛スピードで往来するため徒歩には向いていない。クルマの往来に気をつけながら、狭い歩道をしばらく歩き続けていると水戸街道は分離し、再び1本になる。

私は分離した水戸街道へ進まず、その手前の交差点を左折すると、すぐに大きな製作所の建物が私の目に飛び込んできた。その製作所の住所は、戦前は「陸軍電波兵器練習部」のものであった。航空通信学校同様、電波兵器練習部の建物も解体され、土地は売却されたのであろうか。やむなく私は、製作所の周囲に何か記念碑らしきものが残されていないかと見て回ることにした。

「陸軍電波兵器練習部」跡地
「陸軍電波兵器練習部」跡地は、現在では製作所が建っている
「元陸軍航空通信学校 長岡教育隊跡」の石碑
製作所の敷地の角に「元陸軍航空通信学校 長岡教育隊跡」という大きな石碑。「陸軍電波兵器練習部」を示す文字はない

 製作所の正面入り口沿いの道路を歩いて行くと、製作所の敷地の角に大きな石碑が建立されていた。大きなプレートには「元陸軍航空通信学校 長岡教育隊跡」と刻み込まれていたものの、それ以外は記念碑建立の背景説明を始め何の記述もなかった。あるのは、小さなプレートに「衆議院議員 自治大臣 葉梨信行書 昭和六十二年十月吉日」と手書きの主の名前と肩書きだけであった。

 得心いかなかったのは、陸軍電波兵器練習部は長岡教育隊の跡地に設置されたはずなのに、いっさい触れられていなかったことである。しかも陸軍航空通信学校自体も、電波兵器練習部が編成された時には「水戸教導航空通信師団」に改編され、組織は従来の教育・研究目的から離れて軍隊化していたはずである。なのに、どちらも存在しなかったかのような記念碑になっていた。それが、私にはまったく理解し難かった。

 とりあえず、私は「水戸街道巡り」を終えることにした。
 そして、私が訪ねるべき加藤馨氏縁の土地で残されたのは、中国・満州の駐屯地と旧熊本城内に設置された熊本陸軍教導学校跡の2カ所になった。その頃はコロナ禍の真っ只中で、さすがに遠方への移動には慎重にならざるを得なかった。それで私は、コロナ禍が収束した頃に改めて訪ねることにしたのだった。

 ちなみに、この日は朝から歩いたこともあって、私の歩行数は午後2時には3万歩を超えていた。私の10分間の歩行数が約1000歩だから、単純計算すれば、私は5時間も水戸街道周辺を歩き回ったことになる。さすがにJR水戸駅まで戻るため、もう一度3万歩を超えて歩く体力も気力も私には残されていなかった。そこで私は、恥を忍んで加藤馨経営研究所のスタッフ、川添氏と高山さんの2人にクルマで迎えに来てもらったのだった。その意味では、私の水戸街道巡りは未達成なのである。

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