事業拡大の原点――柳町(根積町)
加藤馨経営研究所は、水戸市柳町、もともとカトーデンキ本店として作られた加藤ビルで業務を行っています。もちろんコロナ禍もある昨今、私たちが事務所に出社するのは週2回程度で、それ以外は資料などを持ち帰り自宅で作業している状況です。さて、これまでも触れていますが、この柳町事務所について、今回はもう少し詳しく説明しましょう。
戦後、加藤馨さんは、元将校だったため職業安定所で仕事を紹介してもらえませんでした。そこで、自営業を始めることを決めます。陸軍時代に習得した電気通信の技術を生かして、当時修理の需要が高かったラジオの修理を行う店を、昭和22年3月6日に開業します。場所は水戸市元台町5丁目。屋根だけのボロ家を、家主に6ヶ月に28回も伺ってなんとか借ります。そのボロ家を修繕して住居と売場(3坪)を設け、なんとか開業します。
開店といっても看板屋に90㎝×180㎝のトタン板に加藤電機商会ラジオ修理店と書いてあるだけでしたが、当時はラジオの修理をする店が少なく、部品も不足で修理できないラジオが沢山あったらしく、近所からも下市の方からも修理品を持参する人が多くて、月平均約70台くらいありました。部品代の他に修理工賃を100円ずつ頂きましたので当座の生活は何とか暮せるようになりましたが、当時は米が不足して配給という制度で毎日食べる量の1/2位しか配給はありませんでした。そこで、2ヶ月に1回くらい茨城町の芳江(※奥さん)の母の生家に物々交換に行ってこの不足を補いました。警察が取り締って見つかると没収されるという今の世では考えられないような社会でした。
加藤馨氏直筆の「回顧録」より
商売は、主にラジオの修理で、売るものと言えば乾電池と携帯電灯、電球程度。以前紹介した古い新聞記事「いはらき 土地っ子」では、「自転車で各家庭を回り、ラジオの修理をやるとともに月二回ぐらいはリュックを背負って部品の買出しに東京まで出かけた。奥さんはミシンとあみもの、新聞配達までやって家計を助けた」と紹介されています。
そんな時、根積町(今の柳町事務所のある場所)に宅地の売り物があり、64坪を坪当たり1,300円、都合83,000円で昭和25年9月19日に購入します。当時はこの代金を払うのに全部の預貯金を集めてやっと支払ったそうです。
土地は買えたものの、家を建てるには当時坪当り2万円くらいかかり、何のあてもありません。すると、10月に入って読売新聞で住宅金融公庫法という法律ができて、費用の70%を融資すると言う記事を見つけます。「これだ!」と芳江さんと相談し、翌日午前中には水戸市南町の常陽銀行本店に行き、担当者と話します。しかし、担当者によると「この件が政府から常陽銀行に通知が来るのには30日から40日くらいかかる」というので、とりあえず住所と氏名を書いて帰ったそうです。
いつ通知が来るかと待っていると、11月末頃にようやく連絡があり、翌日銀行で必要書類を受け取り、12月初旬に申し込みました。「私は2番目で今回の締切りは12月20日で茨城署には12戸の割当とのことでした。12月21日に銀行に伺いましたところ、申込者は11名で申込者全員が借りられるとの嬉しい知らせを頂いてもう家ができると思い、こんなうれしいことはありませんでした」(回顧録より)と加藤馨氏は振り返っています。
そして、なるべくお金が少なく済むようにと考え、住宅12坪、店舗6坪、計18坪の平屋建てを建てることに決めます。翌年の昭和26(1951)年6月15日に18坪の家が落成し、6月20日に引越し、7月1日に新店舗での営業をスタートします。
苦労して手にしたこの店舗に移転してから、売上は元台町の頃に比較して3倍と急拡大。従業員を雇うようになり、その数も10名に達します。そして、水戸税務署を退職し独立した税理士さんから、「店を法人組織にする方が将来発展できる」と提案され、昭和30(1955)年10月1日付で「有限会社加藤電機商会」を設立します。役員は加藤馨氏と妻の芳江氏の2人、2人で50万円と10万円を出し合って資本金は60万円。その後は社員採用も順調になり、昭和35(1960)年2月1日には社会保険に加入し、ようやく会社らしい形ができあがったのです。
根積町の店舗は、その後昭和39(1964)年に、水戸市下市都市区画整理事業に併せて鉄筋コンクリート3階建てに建て替えられ、昭和42(1967)年には倉庫を増設。現在の加藤ビル(柳町事務所)の姿となります。売り場は1階で、2~3階には加藤家の生活スペースがありました。加藤電機商会がメーカー系列店を経て混売店となり、そして家電量販店へと発展していったのは、まさにこの建物からだったのです。
店舗前を水浜電車が通る
加藤電機商会が元台町から根積町(現在の柳町一丁目)に移転した当時、店の前には路面電車が走っていました。水戸と大洗、那珂湊(現ひたちなか市)を結ぶ茨城交通水浜(すいひん)線(水浜電車)です。当時の登記済権利証の地積測量図にも、店舗の目の前の道に「根積町電車通」と記されています。
水浜電車は、水戸方面から水門橋で桜川を渡り、柳町事務所の前を通って、まっすぐ南に抜け、本町一丁目の常陽銀行下市支店で左折して、当時にぎわっていた「本町商店街」(現在のハミングロード513)へと向かっていました(このあたりの地理関係はGoogle Mapなどでご確認ください)。加藤電機商会の立地は、本町商店街から少し外れた場所でしたが、「店先のテレビの前には、力道山のプロレス中継のときなど大きな人だかりができ、水浜電車が警笛を鳴らしながらなんとか通っていた。テレビといっても製品はなくて、買い出しで手に入れたパーツを組み上げて作った、小さい画面のテレビだった」と、加藤修一氏は当時を振り返ります。この水浜電車は昭和41(1966)年に全線廃止となりました。
繁華街や中心地に店を出すのではなく、やや外れた場所に店を出す――柳町事務所の立地は、たまたま目に留まった場所だったのかもしれませんが、その後のカトーデンキの出店戦略に通じるものがあります。家電は日用品などとは異なり、比較的遠方からの集客が可能で、高単価な商品で、購入頻度がそれほど高くない分、信頼できるところで買いたいという気持ちが強い商品です。その後、モータリゼーション(自動車の普及)の拡大とともに、広い駐車場が必要な時代になり、車で行きやすく、停めやすい場所であることが重要になりました。
その後、2店舗目としてオープンした駅南店も当初は決して賑いのある場所ではありませんでした。もしかすると、ロードサイド展開の原点は柳町本店や駅南店にあったのかもしれません。
いつも記事を拝見させて頂いております。
加藤電気の起源を勉強できる貴重な情報に感謝しております。
今後、「がんばらない経営」をより深く学ぶ場所を設けて頂きたく存じます。自分が現在している事が正しいかを再確認したいです。
コロナ禍の下、お互いに体を労りながら「がんばりましょう!」
御無沙汰してます。元気ですか?
経営は「終わりのない駅伝競走」ですが、世代を重ねるごとにスタートした「原点」は遠いものになりがちです。
だからこそ、後世に「がんばらない経営」の創業精神を伝えていくことが大切――このような思いからできた研究所です。
創業精神を学びたい人が気軽に立ち寄り、話を聞けるような場もぜひつくっていきたいと思っています。
まだまだコロナ禍が収まらず大変ですが、ぜひ研究所にもお越しくださいね。