入隊して最初の前線
加藤馨氏は父が急死した後、入学が決まっていた師範学校への進学をあきらめ、家計を助けるために長兄の農業(百合や野菜の栽培)を手伝いました。約5年間農業を手伝いましたが、このままでは将来の展望もなく、次兄の勧めもあって1936(昭和11)年8月に陸軍の入隊検査を受けます。検査に合格し、翌年1月10日に甲府の陸軍歩兵第49連隊に入隊。約1ヶ月の基礎教育を受け、満州に展開していた本隊と合流するべく、2月に広島港から中国・大連、そこから陸路で満州国北部のソビエト国境に近い北安という町に向かい(現在の黒竜江省黒江市)、やや離れたところにある宿舎へと移動します。このとき馨氏は19歳。5月5日に20歳の誕生日を迎える直前でした。
一番先にびっくりしたのは寒さでした。2月半ばでしたが一番寒い日は零下38度になり、生れて初めてこの寒さを体験しました。
加藤馨氏「回顧録」より
厳しい寒さの中、3ヶ月の教育訓練を経て加藤馨氏は一等兵となります。その直後、1937(昭和12)年6月に乾岔子島事件(カンチャーズ島)事件(Wikipediaで見る)が発生します。
この6月にソ満国境のアムール河の中にある小さな島をソ連軍が占領したとのことで、我が部隊に出動命令が来て連隊長以下全員出動しました。この時の命令が無理だったらしく部隊は疲労困憊し、現地に着いた頃には、皆口もきけないほどに疲れてしまいました。この日の夜、近くの集落に野営しましたが、隊長以下全員死んだように寝てしまいました。この夜、私は夜10時から2時間歩哨(寝ないで番をする役)をしましたが、交代時間になっても誰も来ません。夜が明けるまで一人で寝たり起きたりしながら歩哨を務めましたが、もしソ連軍が攻めてきたら我が部隊(約500名)は全滅になるところでした。
加藤馨氏「回顧録」より
加藤馨氏にとっての最初の戦争体験となったカンチャーズ島事件について、『戦史叢書 第027巻 関東軍と対ソ戦備・ノモンハン事件』には以下のような記述があります。
そのころ満州の北部正面の防衛を防衛を担任していたのは、前年五月渡満した第一師団(長 河村恭輔中将-15期)で、当時その主力を斉斉哈爾(チチハル)に集結し、一部を北安に配するとともに、また黒竜江岸の要地にはそれぞれ一小部隊を出して監視に当たらせていた。(中略)
前述の事態を知った関東軍(軍司令官 植田謙吉大将)は、六月二十二日、軍参謀長(東條英機中将)電により中央部に報告するとともに、第一師団に対し有力な一部を現地に派遣するように命じ、また取りあえず満州国外交部を通じ、哈爾浜在住のソ連総領事に対し申し入れの措置を執った。二十四日参謀本部は次長(今井清中将-15期)電をもって東條軍参謀長にあて「満州領たることが明らかな領土が、ソ連によって不法に占拠されることは、将来に及ぼす影響が重大と思われるので、今後とも適宜の処置によって旧態の保持に努められたし」と指示し、強い態度に出ることを要求した。
『戦史叢書 第027巻 関東軍と対ソ戦備・ノモンハン事件』より 防衛研究所「戦史資料・戦史叢書検索」
ここで記されている第一師団に加藤馨氏が所属する歩兵第49連隊も含まれていました。北安に配されていた主力部隊として、「有力な一部を現地に派遣」され、「旧態の保持に努められたし」と命じられます。
満州国とソ連の国境では、両国間で国境の解釈をめぐり紛争が頻繁に発生していました。6月のカンチャーズ島事件では、満州国が自国領土としていたカンチャーズ島に約20名のソ連兵が上陸。満州国の点灯夫や採金夫を退去させ、続いて黒竜江のもう少し上流にある島でも立ち退きを要求します。関東軍としては、ソ連がこの2島を足場にすると満州国への侵攻が容易になるため看過できない事態でした。
強い対応を命じられたものの、現実に派遣された部隊は、加藤馨氏の証言によると「この時の命令が無理だったらしく部隊は疲労困憊し、現地に着いた頃には、皆口もきけないほどに疲れてしまいました」。地図を見ると距離は250㎞ほど、歩兵は装備を担いで徒歩で急行するのですから疲労も当然でしょう。とても「今後とも適宜の処置によって旧態の保持に努め」られるような状態ではなく、ソ連軍が攻めてきたら全滅しかねなかったのです。
その後、武力行使を中止するようにという示達が関東軍司令部に届きますが、現場に伝わる前に前線で動きが生じます。
現地においては関東軍の意図に基づき、第一師団河村中将は、旅団長の指揮する歩兵第四十九連隊の歩兵約一大隊(歩兵砲属)、砲兵一大隊、工兵一中隊を期間とする部隊を河岸に近く展開し、侵入するソ連の艦艇に対して随時これを射撃するとともに、ソ連が不法占拠した島を奪還する準備を進めていた。まさに一触即発の状態にあった時、中央部から武力行使中止の意が伝えられ、植田関東軍司令官は第一師団長に対しその旨を命令した。
『戦史叢書 第027巻 関東軍と対ソ戦備・ノモンハン事件』より 防衛研究所「戦史資料・戦史叢書検索」
しかるにその命令と相前後して、六月三十日ソ連の砲艇三隻が両島の南水道に侵入し来たり、急速度をもって遡航しつつ、わが部隊に対し射撃を加えた。これに対し、わが歩兵部隊は、自営防衛のため反射的にこの砲艇に砲火を浴びせ、たちまち一隻を撃沈し他の一隻に損傷を与えた。
現場の空気は一瞬緊迫するに至ったが、その後、日ソ両軍とも冷静な態度を維持し、事件はそれ以上拡大しなかった。
加藤馨氏は、偕行社刊『偕行 平成24年6月号』に寄せられた「陸軍墓地シリーズ第30回 甲府陸軍墓地」の記事について偕行社に質問状を送ったことがあり、その中で「カンチャーズ島事件でソ連の船舶1隻撃沈というのは誤りで、撃沈していないのではないか」と指摘しています。これに対し偕行社は戦史叢書の記述を紹介し、「この記事で間違いないものと思われます」と回答しています。事実関係はともかく、戦史叢書に「自営防衛のため反射的にこの砲艇に砲火を浴びせ、たちまち一隻を撃沈し他の一隻に損傷を与えた」と書かれているような勇ましい戦いではなかったものと推測されます。
父が急死したため師範学校への進学をあきらめざるをえず、「当時は私のように村の小学校卒業の人の行く先は警察学校に入って巡査になるか、軍隊に入って軍人になるか」(回顧録より)だったため、軍人の道を選んだ加藤馨氏。1月に入隊し、すぐ6月に派遣された最前線で、戦争の現実を目の当たりにしたのでしょう。ここを生き延びた加藤馨氏は、その後下士官を養成する教導学校に応募します。その後暗号担当となり、航空通信将校への道へと進みました。一方、歩兵第49連隊は、1944年にレイテ島で大部分が壊滅します。最初の戦争体験は、決して軍人としての成功を志すようなものではなかったものの、加藤馨氏のその後の人生に大きな影響を与えた出来事と言えるでしょう。
終らない戦後
カンチャーズ事件に続き、翌年には満州国東南端国境で「張鼓峰事件」が発生。さらにその翌年、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった「ノモンハン事件」が発生します。その満州には、一般開拓22万人、義勇隊員10万人、計32万人が「分村移民」として日本から送り込まれました。国策として、貧しい農村が指名され、満州国への入植を求められ、すでに不安定だった国境付近に移住したものの、戦後取り残された日本人が多数います。
歴史から取り残された長野県泰阜村の「中国残留婦人」の帰国事業をNHKの番組で知った加藤馨氏は、その支援に継続的に取り組みました。戦後45年以上が経過する中、引揚者等援護事業は予算が減らされ、特に残留婦人に対する費用は、10年おきに2回のみの一時帰国、しかも往復の旅費のみと支援が限定されていました。その事実に加藤馨氏は心を痛めたのでしょう。支援だけでなく、自身も満蒙開拓団の一人で、帰国事業の中心にいた中島多鶴氏と手紙のやりとりを重ねました。また、残留婦人と直接やりとりした手紙も残されています。
1982年にカトーデンキ販売の社長の座を息子・修一氏に譲り、1995年に名誉会長に退いた加藤馨氏。中国残留婦人の番組「忘れられた女たち~中国残留婦人の昭和~」がNHKで放送されたのは1989年と思われます(同名書籍は1990年刊)。カトーデンキの経営から退いた加藤馨氏は、その後も自身が体験した戦争と向き合い続けました。加藤馨氏は間違いなく成功者です。しかし、多くの元軍人に見られるような、過去を賛美し現在を嘆くような姿勢ではなく、あの戦争がなんだったのか、真実を突き詰め、困っている人がいれば寄り添い手を差し伸べました。その精力的な活動は、引退した成功者の「社会奉仕活動」という簡単な言葉で片付けられるものではありません。このような活動も加藤馨氏を理解する上で欠かせないものです。
自分の人生に活路を見出すべく軍に入隊した加藤馨氏ですが、最初の戦争体験で見た風景は原体験として強く印象付けられたのでしょう。カンチャーズ事件に関する回顧録の記述は以下のような文章で締めくくられています。
私は今でもこの日の苦しさは死ぬより苦しい1日で人間は疲労困憊したら駄目と悟りましたので以後軍人生活中この教訓を守りました。この頃満州は春で野原一面にタンポポの花が咲き、この異様な光景に私はびっくりしました。その後ソ連軍が撤退したので我が部隊も元の地に帰りました。
加藤馨氏「回顧録」より