『正しく生きる』の 取材余話(立石泰則氏 寄稿)~8
翌日、JR水戸駅から徒歩で常照寺に向かい、常照寺を起点に航空通信学校への通勤ルートを辿ってみることにした。そのためには、加藤馨氏が通勤に利用したと考えられる水戸街道へ出なければならなかった。
茶室のある離れから裏通りに出て水戸駅に向かって少し戻ると、左手に中沢池公園が見える。その公園の角を左折して池の縁を少し歩けば、住宅地に入る。ここからは、道幅の狭い、いわゆる生活道路が続く。その生活道路を道なりに進めば、水戸街道(現・県道180号線)に出られる。しかも生活道路の途中の脇道に少し入れば、のちに妻となる芳江さんの実家・川澄家の家屋があった。常照寺からは、500メートル程の距離である。
その時初めて、私は加藤馨氏の「回顧録」に書かれていた芳江さんとの馴れ初めの記述に疑問を持ったのだった。というのも、働く職場が違うとはいえ、二人とも同じ陸軍航空通信学校の勤務であり、平日の定時出勤を考えると二人は宅地の同じ生活道路を利用して水戸街道に出て通勤していたので途中で何度も出会い顔見知りになったとしても何ら不思議ではなかったからだ。とくに、戦前は「軍人の天下」の世の中で、青年将校の制服は若い女性にとって憧れであった。それゆえ、加藤馨氏の将校の姿は、通勤途上ではひときわ目立ったはずである。なのに、馨氏が芳江さんを見初めたのは材料敞に出向いたというなら、通勤途上では気がつかなかったということになる。通勤ルートを歩いた私にとって、とても信じられる話ではなかった。
いずれにせよ、このような疑問を私が抱いたのは、自分の足で実際に通勤ルートを歩いてみたからに他ならない。些細なことではあるが、評伝などノンフィクションが「足で書く」作品と言われる所以である。
水戸街道に出ると、斜向かいは加藤馨氏が起業した個人商店「加藤電機商会」の店舗兼住居跡地だった。その跡地には、今では三階建てのアパートが建てられていた。その横を通り過ごし、水戸街道を上って行く。
次の行く先は、馨氏が教官を務めた陸軍航空通信学校である。ただ戦後、廃校になり建物自体も取り壊されたと聞いていた。地図を見ると、通信学校があった場所は音楽専門学校に代わっていた。とりあえず私は、何もないと分かったうえで、航空通信学校「跡地」を目指して進むことにした。
水戸街道沿いに30分から40分ほど歩くと、右手に小学校の校舎が見えてくる。小学校を右にして脇道へと左折する。そのまま道なりに進み、水戸バイパスを横断するとすぐに音楽専門学校の建物が見える。音楽専門学校の中には入らず、周囲を散策していると大きな石碑が目に入ってきた。
その石碑には、3枚のプレートがはめ込まれていた。
最上段のプレートには「平和乃礎」と刻み込まれていた。次のプレートは「陸軍航空通信学校跡」だった。3枚目のプレートには、建立の趣旨が綴られていた。その一部を抜き出してみる――。
《共に笑い、共に泣き、共に耐え、共に喜びを分ち合ったこの地に、今遠くそれえの思いを馳せ、平和への願いをこめて、この碑を建立するものであります》
建立者には「水戸つばさの塔奉賛会」の名前が刻まれていた。おそらく通信学校の関係者やその賛同者の有志によるものであろう。いずれにしても、国など行政組織とは関わりのない、純粋に民間の有志の志によって建立された記念碑なのだ。
私は、石碑のモチーフとも言うべき「平和乃礎」が付けられた記念碑の意味を改めて考え、建立者たちの「平和」への強い思いを知らされた気がしたのだった。この通信学校で学び、そして通信兵として巣立っていった「若い兵隊さん」たちは、戦場からいったい何人が生きて帰ってこられたのだろうか――そう思うと、胸が苦しくなった。平和の尊さを噛みしめる。