『正しく生きる』の 取材余話(立石泰則氏 寄稿)~6
千木良を歩くといっても、目的もなしに場当たり的に歩いたわけではない。千木良のバス停からまず加藤馨氏の生家を目指した。生家はバス停からそう離れていなかった。そこで生家を起点にして、加藤氏と縁のある土地や場所を訪ねることにしたのだ。
まず最初に、加藤家の菩提寺「善勝寺」を訪ねた。生家から徒歩で5~6分の距離にある。その善勝寺では戦後、建物の老朽化から大改修が行われたさい、加藤家は檀家として釣り鐘(梵鐘)を寄進するとともに釣り鐘堂(鐘楼堂)の修復工事等の費用を負担したと聞いていた。
善勝寺では、満開の桜が私を迎えてくれた。
境内を見渡して私が最初に感じたのは、清掃が行き届いた「美しいお寺さん」というものであった。さっそく私が釣り鐘堂に近づくと、釣り鐘には「恭しくみほとけを 礼拝し寄進し奉る」の言葉とともに寄進者として長兄の操氏と馨氏が連名で刻まれていた。そのことからも、菩提寺が檀家としての加藤家の寄付をいかに感謝しているか分かろうというものだ。
いったん馨氏の生家に戻り、次は馨氏が通っていた小学校と立て直しの費用を負担した千木良公民館を訪ねることにした。平地が少ない千木良らしく公民館も小学校も、本来なら建設の障害になる坂(道)をうまく活用した建物になっていた。私は「なるほどなあ」と納得した。「必要は発明の母」とはよく言ったものだと改めて思った。
坂にへばり付くように建てられた千木良公民館に入館すると、外観とは違って内部の音響設備や備品類などに決して安くはない製品がふんだんに使われていた。私はすぐに馨氏の「利用者ファースト」の思いが込められた公民館作りだったことを理解した。掲示板には、帝国ホテルで開かれた馨氏の「お別れ会」で配られた「追悼」のパンフレットが展示されていた。いつまでも馨氏の厚意と公民館建て直しへの貢献を忘れないため、そして語り継ぐためのものだと感じた。
小学校は木造から鉄筋へと大幅に建て直されており、その際には丘陵地を活かしたつくりになっていた。たとえば、正面玄関は道路沿いにあるが、傍の坂道を下ると運動場への入り口に辿り着くので、あたかも土地に組み込まれているように見える。春休み中だったのか、運動場にも校舎にも生徒の姿は見えなかった。
いずれにしても、千木良は坂や坂道が多い土地柄というのが私の第一印象になった。その後も私は、千木良を二度訪ねては取材を続けた。