『正しく生きる』の 取材余話(立石泰則氏 寄稿)~5

第三章 創業者・加藤馨の縁(ゆかり)の土地を歩く

 加藤馨氏の本格的な評伝を書きたいという私の思いは、加藤氏の生前には実現されることはなかった。その理由は、雑務に追われた私の怠慢以外の何物でもなかった。しかしそんな私に、ご子息の加藤修一氏(元ケーズホールディングス会長、現名誉会長)から「創業の精神」を多くの人に知ってもらい、そして引き継いで欲しいからと評伝執筆の依頼を頂いたのである。そのために、修一氏は「加藤馨経営研究所」(水戸市)を設立して先代・馨氏が残された数々の資料類の整理と修復などの作業に入られていた。それらの資料を、私は評伝を書くにあたって、全て自由に利用することが許された。

 かくして『正しく生きる』の取材は、2021年3月30日に行われた加藤馨経営研究所のオフィスでの打ち合わせから始まった。この打ち合わせは、加藤修一氏ならびに研究所スタッフである川添聡志氏と高山啓美氏のお二人、さらに著者である私と発行元「岩波書店」の担当編集者・伊藤耕太郎氏の合計5名の出席のもと行われた。いわゆるキックオフの場にもなったのである。

 私のフィールドである「ノンフィクション」は、しばしば「足で書く」と言われてきた。これは、活字資料も大切だが、現場を歩いて主人公と同じ土地に立って同じ空気を吸い、同じ季節を感じ、同じ風土に身を置くことで知る情報が執筆するうえでより大切になるという比喩である。つまり、言葉では表現できない、体感でしか得られない大切な何かがあるという指摘なのである。

 私も、この「足で書く」ことは加藤馨氏の評伝執筆では不可欠だと考えていた。そこで私は、加藤氏の縁(ゆかり)の土地や場所をすべて訪ねることにしたのだった。そして最初に目指したのが、加藤馨氏の生まれ故郷の神奈川県相模原市「千木良」(旧千木良村)である。

 加藤馨経営研究所での打ち合わせから間もない4月初め、私は千木良を訪ねた。

JR相模湖駅の風景
JR中央本線の相模湖駅
相模湖町の観光地図の看板の画像
相模湖町の観光地図

 千木良の最寄りの駅は、JR相模湖駅である。相模湖駅から千木良まで坂道が続くが、その坂道をバスで5~6分ほど揺られると千木良(地区)に着く。千木良に降り立った私が最初に感じたのは、あまりにも平地が少ないということだ。加藤馨氏の生家まで歩いていても、狭い畑しか目に入ってこなかった。私は、この地で専業農家として生計を立てていくことは至難の業だったろうなと思った。そして馨氏の父・定一氏の先見の明の秀逸さに改めて感心させられたのだった。

 千木良の土地は肥沃ではなく水はけも悪く、しかも戦前は潅漑(かんがい)施設もなかったため稲作には適していなかった。稲作ができない農家では、農業だけでは食って行けるはずもなく、それゆえ千木良ではそもそも農家の副業で貴重な現金収入であった養蚕業が盛んになるのである。それを後押ししたのは、絹製品を含む繊維産業の育成に注力していた明治政府である。

 一方、馨氏の父・定一氏は村民の多くが養蚕農家になる風潮に流されることなく、百合根の栽培に活路を見出す。それも、百合根農家は千木良村では加藤家だけであった。定一氏の選択の理由は、いまも不明である。ただ世界的な不況で日本の繊維業界が大打撃を被り養蚕業にも深刻な影響を受けたとき、千木良村の養蚕農家の暮らしが立ち行かなくなっても、百合根のビジネスが好調な加藤家では豊かな暮らしを続けることができた。それは、養蚕農家ではなく百合根栽培農家を選んだ定一氏に先見の明があった証でもあった。

 しかしそれでも、定一氏は豊かな暮らしに安住することなく、子供たちには「(千木良では)農業には未来がない」と言い聞かせて、別の道に進むことを求めた。そのために定一氏は、子供たちが高等小学校を卒業すると、さらに上級学校への進学を勧めたし、その進学によって兄姉たちは教師や農業試験所の職員などに職を得られたのである。

 私が感心したのは、百合根栽培のビジネスが大成功し多くの村人たちもその恩恵に与りたいと定一氏のもとを訪ねては教えを乞う日々が続いていた最中にもかかわらず、「農業に未来はない」と判断していたことである。たしかに、養蚕業も百合根のビジネスも取引先はアメリカなど海外が中心であるためカントリーリスクは避けられない。実際に定一氏の死後、アメリカと戦争したことでアメリカ市場やヨーロッパ市場を失い、百合根のビジネスは行き詰まる。

 稲作ができない千木良の土地では、定一氏にとって「農業は将来性を感じられない」産業に過ぎなかった。私は千木良を歩きながら、社会の雰囲気に流されることなく時代の先を読んだ定一氏の生き方に改めて感心するとともに納得したのだった。

相模湖町千木良の風景
加藤家の菩提寺である善照寺の墓地から見下ろした千木良の風景

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