『正しく生きる』の 取材余話(立石泰則氏 寄稿)~7

 千木良の次に私は、水戸の加藤馨氏縁の土地や場所を訪れることにした。
 4月下旬、まず私が向かったのは、馨氏が航空通信学校の教官を務めていた時の下宿先「常照寺」である。まだ水戸市内の地理に不慣れだったこともあって、私はJR水戸駅からタクシーを利用した。そのさい、私は行き先を「常照寺正面入り口」と運転手に告げた。というのも、事前に常照寺の場所を地図で確認したものの、敷地が広く入り口が何カ所もあって、どこが正面入り口なのか分からなかったからだ。

 JR水戸駅からタクシーで10分足らずで、常照寺正門入り口に着いた。
 正面入り口に立った私は、本堂まで続くと思われる長い上り階段を見て、すぐに常照寺が城跡に建立された寺院だったことを思い出した。少なくとも数回は訪ねる予定だったので、その都度、目の前に続く長い階段を登らなければならないことに少々ウンザリした気持ちになった。

水戸市元吉田町にある常照寺の正門
水戸市元吉田町にある常照寺の山門。
高台にある本堂までは長い階段を上る

 気を取り直して階段を上り切ると、本堂へと続く道が開ける。その道を抜けて境内に入ると、そこには荘厳な世界が広がっていた。私は、思わず襟を正した。いや、そうさせる雰囲気に満ちていたのだ。名のある寺とは聞いていたが、やはり、寺にも「品格」というものがあるのだと思った。

常照寺の参道
階段を上りきると、本堂まで長い参道がある
常照寺本堂と奥の門
水戸光圀公が建立した最後の寺院。本堂は、荘厳な雰囲気に包まれている

 私はしばらく佇み、常照寺が醸し出す静寂の中に我が身を置いた。世俗にまみれた心身を洗い流し生まれ変わったような気分になったところで、私は加藤馨氏が寝泊まりした部屋のあった建物を探すことにした。たとえ中に入れなくても、建物の外観だけでも分かれば、部屋の様子も想像しやすくなると考えたからだ。本堂はすぐに分かったので、それ以外の建物を確認していると、境内の掃除をされていたお内儀から声をかけられた。
「(寺に)何か、ご用でしょうか」
 私は、ケーズデンキ創業者・加藤馨氏の評伝執筆のために取材していること、そのため馨氏が航空通信学校の教官時代の下宿先だった「常照寺」にも足を運んでいることなどを伝えた。

 するとお内儀からは、馨氏が生活していた部屋をいまも保存しているから見て行かれませんかと嬉しい申し出をいただいたのだ。私は「是非に」と即答し、お内儀に部屋に案内されることになった。案内の道すがらお内儀からは、馨氏が下宿していた部屋はもともと茶室で、戦後傷みが酷かった箇所を含め全面的に修復したのでいまは綺麗になっていることいったことなどの説明を受けた。

常照寺の茶室1
戦時中、馨氏が下宿した際に住んだ茶室
常照寺の茶室2
4畳半の和室と1畳半の水屋からなる茶室。馨氏は、ここから陸軍航空通信学校へ通った

 案内された部屋は、まさしく「茶室」そのものだった。茶室は4畳半の和室と1畳半の水屋からなる部屋で、寝起きするだけなら十分な広さであった。朝夕の食事を4畳半の和室で摂り、平日は航空通信学校へ通い、休日の昼だけ外食をするため外出する馨氏の日々の暮らしを想像しながら、和室と水屋を何度も見直していると、馨氏の几帳面な性格を得心させられたのだった。

茶室わきの水屋
1畳半の水屋。水屋というのは、茶室に付属して設けられる部屋で、茶事や茶会を円滑に進行させるために、茶席で用いる道具などを置く

 お内儀にお礼を言ってから境内をしばらく散策し、正面入り口以外からの出入り口を探してみることにした。今後も長い上り階段を利用するのは、なんとか避けたいと思ったからだ。すると、隣の寺院の敷地を横切る細い道を辿れば、正面入り口とは真後ろに位置する裏通りに出られることが分かった。このコースを利用すれば、徒歩でJR水戸駅までは20分程で戻れそうだった。そこで当日の帰りは、この裏通りを歩いてJR水戸駅に戻ったところ、予想した通り、所要時間は約20分であった。

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