加藤馨氏と水戸の結びつき
加藤馨氏は神奈川県の千木良村出身です。津久井郡千木良村は、1955(昭和30)年に市町村合併で津久井郡相模湖町となり、現在は神奈川県相模原市緑区千木良となっています。千木良村の農家に生まれ、成績優秀で鎌倉の師範学校への入学が決まっていた加藤馨氏ですが、父が急死したため進学をあきらめます。家業である農業を約5年手伝っていましたが、次兄の「農業の手伝いはやめて自分の将来の仕事に就かせないと先が大変になる」との勧めもあって軍人になりました。
昔は長男が家督を継ぎ、それ以外の兄弟は他家に婿入りしたり、あるいは自分の人生を切り開いていくなど独立する必要がありました。加藤馨氏にとって自分の人生の拠点となったのが、ケーズデンキ創業地である茨城県の水戸です。加藤馨氏と水戸の縁は、1941年12月25日の水戸陸軍航空通信学校への入学から始まります。翌年8月25日に卒業すると同時に加藤馨氏は通信学校用員となり、同年10月に新たに編成される第6飛行師団本部通信隊用員となりました。第6飛行師団はソロモン・ニューギニア作戦の指揮に当たる第8方面軍隷下に11月に編入され、ニューギニア東部で航空戦や船団の護衛を担当します。加藤馨氏も本部通信隊用員として着任するため、10月下旬に東京芝浦港を出航し、4日かかって本部のあるラバウルに移動しました(翌年4月に司令部をウェワクに移動)。
ラバウルで通信隊用員として任務にあたる中で、1943(昭和18)年8月に隊長から9月に実施される航空士官学校の学生科入学試験を受験するよう命を受けます。後日、第6飛行師団で受験した32名中1位の成績で合格。大型無線機の移設任務などを経て、同年10月1日に埼玉県豊岡町にある陸軍航空士官学校に入学。卒業後、通信科学生は全員水戸の陸軍航空通信学校で1か月間の教育があり、通信科学生20名のうち加藤馨氏を含む3名がそのまま水戸の陸軍航空通信学校付きを命じられました。加藤馨氏は少尉となり、下士官学生の教育にあたり、その後1945(昭和20)年に中尉に昇格して電波兵器教育隊で教官を務めます。そして、航空通信学校に事務員といて勤めていた芳江さんと結婚式を挙げ、加藤馨氏は電波兵器教育隊の教官として水戸で終戦を迎えました。加藤馨氏は暗号班や通信将校だったこともあり、早くから日本の敗戦を予想していたはずですから、芳江さんと結婚し、水戸で戦後の人生を歩んでいくことを決意していたのかもしれません。
ユリ根の栽培・輸出という縁
戦後、加藤馨氏は水戸でラジオ修理店を開業し新たな生活を始めますが、神奈川から来た「よそ者」としてボロ家を借りるにも苦労しました。しかし、水戸との縁はなにも陸軍航空通信学校だけではありません。調べると奇妙な縁が見えてきます。
冒頭に記したように加藤馨氏の実家は神奈川県の千木良村の農家で、父は千木良村で多くの人に頼られる存在でした。
関東大地震の後3年くらいは、この復興事業で日本の景気は良かったのですが、昭和のはじめの頃になると、全国的に不景気になり、千木良でも生活できない家庭が続出しておりました。当時村では養蚕で繭を作ってこれを売り、工場ではこれを生糸にしてアメリカに輸出して国の輸出の50%くらいを占めていましたが、アメリカが不景気になって生糸の値が半値に下がってしまったのです。
加藤馨氏「回顧録」より
この頃、私の父はどこから聞いたのかわかりませんが、鉄砲百合を村で1人作っていたのが当たって、大層高く売れて5000円(今の物価では4000万円くらい)になり、村中の評判になって、夜になると村の人々が毎日のように鉄砲百合の作り方をききに来ていました。3年後には村中の農家が作るようになりましたが、あまり成功しなかったようです。父は何につけてもとても熱心でしたので加藤家ではこの鉄砲百合の栽培で成功して(以下略)
テッポウユリは、もともと日本では食用として栽培されていましたが、明治6年(1873年)にウィーン万国博覧会に出品され話題となって以降、欧米で大人気となりました。真っ白なユリは、キリスト教において純潔を象徴する花であり、聖母マリアを象徴する花とされていることが人気の理由です。人気となった日本のユリ根は欧米への輸出が盛んになります。国立公文書館アジア歴史資料センターでは、「ユリ根の輸出」という項目で以下のように紹介しています。
明治41年(1908年)に日本から輸出されたユリ根は1200万個近く、金額で45万円近くに上っていました。また、国別の輸出統計からは、そのほとんどが欧米諸国に運ばれたこと、特にイギリスとアメリカ合衆国への輸出が抜きん出ていたことがわかります。輸出港別の統計からは、横浜港からの輸出が9割以上を占めていたことがわかります。なお、横浜におけるテッポウユリのユリ根には、一本あたり2円50銭~5円の値が付いています。
国立公文書館アジア歴史資料センター「ユリ根の輸出 ~欧米で愛好された日本の草花~」
加藤馨氏の父も、おそらくは横浜港から輸出されるユリ根のことをどこかで耳にして、栽培を始めたのでしょう。しかし、「3年後には村中の農家が作るようになりましたが、あまり成功しなかったようです」と加藤馨氏が振り返っているように栽培は簡単ではなかったようです。生糸の価格暴落が発生したのは1919(大正8)年前後、第一次世界大戦が終わった後です。その後、1923(大正12)年の関東大震災で震災恐慌が起き、1927(昭和2)年には金融恐慌が発生。そのような厳しい経済環境下、ユリ根栽培の成功により、加藤馨氏の2人の兄は農学校へ、一番上の姉は和裁の学校へ、すぐ上の姉は師範学校へ入学できたそうです。末っ子の加藤馨氏も師範学校への入学が決まっていましたが、父の急死により進学をあきらめざるをえませんでした。
後年、経営から退いた加藤馨氏は、故郷千木良の老朽化した公民館を、1億円の私財を投じて建て替えます。落成した「相模湖町立千木良公民館」の正面入口の上には、相模湖町の町章と並んでテッポウユリの絵が掲げられていました(市町村合併され、現在は町章とユリの絵は掲げられていません)。
千木良村の加藤家を支えた輸出用ユリ根の栽培。実は、徳川慶喜公もユリ根の栽培、輸出を手掛けていたそうです。水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、一橋家に養子入りした後、江戸幕府最後の将軍となった慶喜公は、大政奉還で将軍職を退いたのち、「自らクワを持って堀り、ユリを栽培し、外国へ送るビジネスを始めた」(明治7年の新聞)と報じられています。当時の慶喜公はまだ30代後半。静岡に居を移し、政治にかかわることなく、さまざまな趣味に没頭していました。慶喜公のユリ輸出ビジネスが成功したかどうか定かではありませんが、明治7年はウィーン万博が開催された翌年の取り組みですから、先見の明があったと言えるでしょう。水戸という新天地に居を構えて家電流通事業を興した加藤馨氏が、慶喜公とユリ栽培・輸出ビジネスでつながっているのは奇妙な縁と感じられます。今回の記事は加藤馨氏の経営思想とは直接関係ありませんが、ちょっと面白いエピソードだったのでご紹介しました。