『正しく生きる』の 取材余話(立石泰則氏 寄稿)~2

第一章 私とケーズデンキの出会い

 『正しく生きる』を上梓する前に、私には『「がんばらない」経営』(草思社、2010年)というケーズデンキの経営を論じた著作がある。その意味では、『「がんばらない」経営』は私に『正しく生きる』の取材・執筆へと駆り立てるきっかけとなった作品でもある。そうした背景を踏まえ、まず私がケーズデンキの経営に興味を抱いた経緯から話しておきたいと思う。

 週刊誌記者から「ジャーナリスト・ノンフィクション作家」として独立した1988年以降、私は「一年一作」を目標に毎年のように作品を発表してきた。処女作『復讐する神話――松下幸之助の昭和史』(文藝春秋、1988年)を皮切りに松下電器産業(現・パナソニック)やソニー、富士通などの電機メーカーを取材するともに、日本のプロ野球の草創期を取りあげるなど幅広い執筆活動も続けてきていた。

 ただし、なぜか家電流通の取材は手つかずのままであった。というのも、当時の私は「もの作り」に強い関心があり、何をするにしてもまず「メーカー」を企画・取材対象にしがちだったからだ。そんな私が大手家電量販店の問題を雑誌で取りあげ、ひいてはケーズデンキの経営にまで興味を抱くようになるのは、知り合いの編集者からの執筆依頼がきっかけであった。

 その編集者は当時、講談社の月刊誌「現代」(現在、休刊)で日本の家電量販店業界・トップのヤマダ電機(現・ヤマダホールディングス)の強引な安売り商法を批判的に取りあげる企画の担当者であった。ただ当時すでに、大手経済誌がヤマダ電機の強引な「激安商法」を大きく取りあげて批判を展開していたし、他の雑誌でも「町の電気屋」さんの経営を圧迫し倒産等に追い込む強引なやり方だと「ヤマダ商法」に対し声を挙げていた。つまり、ヤマダ電機の強引な激安商法は社会的に認知され、それに対する批判はメディアでも盛んだったのである。

 そんななか、「現代」の編集者は前述した経済誌等のような視点ではなく、社会からの批判など気にする風もなく変わらず激安価格で強引に各地で出店を繰り広げる「創業者・山田昇とは、そもそもどのような人間なのか」、つまりその本性を暴いて欲しいと私に執筆依頼してきたのである。

 家電量販店業界トップで年商1兆円を超えてもなお、全国制覇を狙って各地の至る所で多店舗展開を強引に押し進めるヤマダ電機の創業者・山田昇。当然、ヤマダ電機が進出した地区では、ヤマダの異常な激安価格に対し「町の電気店」は強い危機感を募らせたし、地元の家電量販店も突然現れた強力なライバル店に対し、臨戦態勢を整えるとともに過酷な安売り合戦に消耗戦を強いられたのだった。

 しかし山田昇は、進出地区の「町の電気店」によるヤマダ商法への抗議集会も、地元家電量販店からの対抗策にもまったく意に介する風もなかった。そんな山田の「底知れぬ強欲さ」に私は強い嫌悪感を覚えつつも、不思議な執筆意欲を、それも強い執筆意欲に囚われていった。そこで私は、熟慮したうえで「現代」編集部からの執筆依頼に応じることにしたのだった。

LABI池袋オープンの記者会見で話す山田昇氏の画像
2007年7月。LABI池袋オープン会見で話すヤマダ電機山田昇代表取締役社長兼CEO(当時)

 その後私は、取材チームを立ち上げて彼らとともに山田昇の生まれ故郷・宮崎市砂土原町へと向かった。砂土原町では、山田の生家の家業や経済状態などの取材を行うとともに山田昇の生家での日常生活や学校生活の様子を小学校・中学校時代の同級生たちから聞くことができた。とくに印象的だったのは、山田昇が中学の途中で転校してもしばらくは同級生たちがそのことに気づかなかったというエピソードである。つまり、中学生の山田昇は、それほど控えめで目立った存在ではなかったし、クラスでもきわめて印象の薄い少年だったというのである。

 ヤマダ電機を一代で業界トップに押し上げた、凄腕の「超ワンマン経営者」というイメージしか持ち合わせていなかった当時の私には、山田昇の「クラスで印象の薄い」中学時代を想像すらできなかったので少し困惑してしまったことをいまも覚えている。

 砂土原町での取材は、私が予想した以上に実り多いものであった。取材成果に満足していると、取材チームのひとりが興味深いエピソードを拾ってきたのだ。それはヤマダ電機を退職した社員の話で、それも息子の退職に最後まで反対したものの息子の決断を翻意させられなかった父親の戸惑いと落胆、その後の心境を聞いたものであった。
 
 取材チームの彼が父親に聞いた話は、概ね次のようなものであった。
 1992(平成4)年7月、山田昇は故郷・宮崎市に県内最大級の売場面積を誇る「ヤマダ電機 宮崎本店」(当時はテックランド宮崎店)を新規オープンさせた。しかも宮崎本店は、記念すべき100店舗目となる出店であった。いわゆる「故郷に錦を飾る」形となった山田昇は、オープン前日に開催した「前夜祭」でのスピーチでこう言ったという。
「念願だった郷土に店舗を出せ、こんな嬉しいことはない。この店を拠点にして、さらに(宮崎)県内に店舗展開を図り、地域経済の活性化に少しでも貢献したい」

 山田昇の言葉通り、ヤマダ電機は宮崎本店の新規オープンにともなって従業員(店員)として、地元の高校から多数の卒業生を採用した。それ以降も毎年のように、地元高校からの採用は続いた。県内の他の地域でも、ヤマダ電機が進出した地域では同様に地元高校の卒業生が多数採用された。

 その父親の息子も、高校卒業と同時に宮崎本店に採用されたのだという。
 しかも息子は、真面目な仕事ぶりが評価され、順調にフロア長にまで出世する。そしてヤマダ電機が中国地方に新たに出店する大型店舗のフロア長としての栄転が決まる。父親によれば、将来の店長候補としての転勤だったという。父親にとって、高卒の息子が「一部上場企業」(2000年に一部上場)のヤマダ電機で幹部への階段を順調に歩んでいる姿に当初は困惑したものの、いまでは誇りに思っているようであった。ひょっとしたら(息子は)役員になれるかも知れない、と父親が息子の将来に希望を抱いたとしても十分に理解できる。

 ところが、そんな自慢の息子がある日、赴任地から父親に「会社を辞めたい」と連絡してきたのだ。想像もしなかった息子の退職話に驚いた父親は、取る物も取り敢えず駆けつけるしかなかった。当初父親は、息子が一時の気の迷いから「会社を辞めたい」と言い出したと考えていた。父親にしてみれば、高卒の人間が一部上場企業に入社して順調に出世していくなどは、この「学歴社会」の世の中ではきわめて幸運なケースと考えていたからである。それゆえ、息子がそんな幸運を自ら捨てることなど信じられなかったし、息子の若さがゆえの一時的な感情での間違った決断を父親である自分なら正せると考えていたのだった。

 しかし息子は、父親の説得に対し「オレが結婚できなくてもいいのか。普通の家庭生活を望むことが、そんなに贅沢なことなのか」と言って強く反発したのである。さらに、息子はヤマダ電機のフロア長としての日常をこう説明した、という。
「(フロアの)店員の誰よりも早く職場に入って、最後の戸締まりのため誰よりも遅く退室する毎日。毎週(本社の)前橋で開かれる(幹部の)ミーティングのさい、店長に同行することも多く、休みなんて月に1度か2度程度しかない。たまの休みは疲れをとるため外出などしていられない。(ヤマダ電機は)たしかに給料はいいし、仕事もやりがいがある。でもそんな休日もまともにない生活だから、この年になっても若い女性と出会う機会すらないし、たとえ出会えてもデートの時間さえない。それで、どうして結婚ができると考えられるんだ。いくら金が貯まっても、一生独身なんてイヤだ」

 父親は、自慢の息子の切実な訴えに何も言えず、ただ黙って頷くしかなかったという。
 それでも父親は、理屈では息子のヤマダ電機退職に理解を示したものの、感情としては「一部上場企業」を退職することは「もったいない」となかなか受け入れられなかったようである。とはいえ、息子の幸せを願う親としては、息子の希望を受け入れるしかなかった。

 その後、息子はヤマダ電機を退職して地元の中小企業に転職した。いまは、転職後に知り合った女性と結婚して、息子が望んだ毎週休める「普通の暮らし」を満喫している、という。そんな息子の幸せそうな結婚生活を間近に見て、父親は息子の決断の正しさに得心し、安堵したという。

 このエピソードの報告を取材チームの一人から受けたとき、私は取材開始前に聞いていた家電量販店の店員の過重労働(問題)の根深さを改めて思い知らされた気がした。しかし同時に私は、退職の決断を迫られたフロア長のような職場環境がヤマダ電機に限られたケースとは思えなかった。程度の差こそあれ、多かれ少なかれ大手家電量販店では似たような職場環境だろうし、それが「日常」として受け入れられているのではないか、と考えていたのだ。

 宮崎取材から戻った私は、しばらくして家電流通の業界誌の編集部を訪ねていた。じつは、ヤマダ電機の取材を始めるにあたって取材未経験の家電量販業界の現況をとりあえず知るため業界誌の編集長にレクチャーをお願いし、その後も機会あるごとに意見交換を続けていのだ。当日も、宮崎取材の四方山話を編集長と楽しむことにしていた。

 そして話の流れから退職したヤマダ電機のフロア長の職場環境に触れ、私が「結局、大手家電量販店の経営者にとって、売り場の店員なんか『使い捨て、捨て駒』に過ぎないんですね」と批判すると、編集長は少し考えてから意外な言葉を返してきたのだった。
「(雑誌企画の)ヤマダ電機の取材から外れるかもしれませんが、ケーズデンキ社長の加藤修一さんに『家電量販業界のいまの状況について、是非お考えを聞かせてください』と取材申し込みしたらどうでしょうか。というのも、ケーズデンキの加藤さんはヤマダ電機と真逆の経営をされていますし、従業員を一番大切にしたいと公言・実践されていますから。実際に私の取材でも、店長もフロア長も毎月きちんと休日をとれていましたし、定時帰宅もしていました」

 当時の私にとって、「ケーズデンキ」は馴染みのない名前であった。
 編集長によれば、ケーズデンキの本社は茨城県水戸市にあって北関東を中心に首都圏の一部に店舗展開しているローカルチェーンの家電量販店だという。業界トップを争ったヤマダ電機やコジマのような全国展開は目指さないことを明らかにしているとも教えてくれた。家電量販店業界の年間売上高では、当時はトップのヤマダ電機から大きく引き離されて5~6位が定位置であった。

 編集長の真意を測りかねたが、とりあえず私は彼のアドバイスに従うことにした。
 2007年の夏、私は初めて水戸のケーズデンキの本社を訪ねた。社長の加藤修一氏とのインタビューは、和やかな雰囲気の中、順調に進んだ。私からの質問に対し、加藤氏は忌憚のないところを率直に語っていただいたと思う。その中でも、私に強い印象を残したのは、次の二つだった。

 ひとつは、会社を評価される基準のひとつでもある売上高のランキングについて「順位がどうなんだなんて気にしちゃいけないじゃないか」と持論を述べたことだ。加藤氏によれば、会社の経営に「終わり(ゴール)があるわけではないので、どこかの時点で(売上高で)業界トップになったとしても意味がない」というのだ。もし業界トップになった時点で会社を解散するのであれば、表彰式をして「良かったね」で終わることもできる。しかし現実は、会社の経営が終わるわけではない。それゆえ、彼は会社の経営を「終わりのない駅伝競走」と名付けるのだ。つまり、会社の経営は社長交代しながら続いていくというわけである。
 
 それを可能にするためには、会社の体力が去年よりも今年、今年よりも来年という風に年々強くならなければならない。そこで加藤氏が採用した経営手法は、彼のモットーでもある「がんばらない経営」というわけである。この「がんばらない経営」という言葉こそが、私に強い印象を残した二つめである。

 初めて聞く「がんばらない経営」という言葉の真意を、加藤修一氏はこう説明した。
私が口にする『頑張らない』という意味は、『出来もしないことをやろうとしないようにしましょう』ということです。『頑張る』という言葉には、出来ないことをなんとかしろと意味合いが込められている気がしてならないのです。しかもそういうものは不確定要素なので、経営的には不安要素でしかありません
 それゆえ、加藤氏は「頑張れ」の言葉の代わりに「何をどうしましょう」と言い換えることを社員に奨励しているという。精神論や根性論では、具体的な問題解決(策)に辿り着く事はできない。だから、根拠のある確かなものに基づいて解決法を見つけ出すべきだし、実際にケーズデンキではそうしているというのが加藤氏の主張である。

 加藤氏の考えに従えば、社員に精神論で無理をさせるのではなく、逆に社員がちゃんと働くためには十分な休みが取れる体制作りを行うことになる。実際、ケーズデンキは週休二日制を実施しており、多忙な店長といえども、週に2日きちんと休めるようになっている、という。なお、当時のケーズデンキでは従業員の年間休日数は104日であった。つまり、年間の約3分の1を休めるのである。

 たしかに業界誌の編集長が指摘した通り、ケーズデンキでは社長の加藤修一氏のもと、ヤマダ電機とは真逆の経営が行われていた。私は、それまでの認識を改め大手家電量販店を個別に見るように心がけるようにした。もしかしたら、ケーズデンキと同じような従業員を大切にする経営を実行している家電量販店があるかも知れないと考えたからである。いずれにしろ、大手家電量販店各社を「家電量販店」という一括りで捉えるようなことは、控えるようにした。

 その後私は、加藤社長の「がんばらない経営」という考えを頭の隅に置いて、月刊誌「現代」に掲載する原稿を書き上げた。「現代」では、「ヤマダ電機の品格」のタイトルで2007年9月号と10月号の2回連載で掲載された。そして翌2008年1月、私は「現代」の記事に大幅な加筆修正を行い、単行本『ヤマダ電機の品格 No.1企業の激安哲学』(講談社)を上梓したのである。

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