加藤馨会長の出店地探し
加藤馨氏の残した資料や書籍を調べていると、研究を開始して1年以上経った今でも新たな発見があります。事務所に置かれている書籍はひと通り目を通したつもりでしたが、先日加藤馨氏に関する新たな記述を事務所で発見しました。 書籍名は『自分史 この石が食べれたら ──モンゴル抑留──』。著者の酒井武雄氏は、19…
加藤馨氏と水戸の結びつき
加藤馨氏は神奈川県の千木良村出身です。津久井郡千木良村は、1955(昭和30)年に市町村合併で津久井郡相模湖町となり、現在は神奈川県相模原市緑区千木良となっています。千木良村の農家に生まれ、成績優秀で鎌倉の師範学校への入学が決まっていた加藤馨氏ですが、父が急死したため進学をあきらめます。家業である農…
暗号班への配属が人生の転機に
ソ満国境で発生したカンチャーズ島事件に参加して間もなく、加藤馨氏は教導学校(下士官を養成する学校)の学生募集に応募し、簡単な面接を経て入学を許可されます。当時の教導学校は豊橋(愛知県)にあり、1937(昭和12)年9月20日に任地を出て、9月25日に甲府の部隊に帰還します。10月1日の教導学校入学を…
戦争は悲惨、二度と起こしてはいけない
新年明けましておめでとうございます。本年も当研究所をよろしくお願いします。さて、新年最初の記事は、加藤馨氏がある日突然幹部社員を集めて語った「戦争」に関するエピソードです。 本社幹部社員を急遽集めて語る 2012年、94歳の加藤馨名誉会長はある日、加藤修一会長(当時)に本社の役員、執行役員をはじめと…
「加藤馨氏が残した言葉」を掲載
本ページをご覧になるとわかると思いますが、右のメニューに「加藤馨氏が残した言葉」というコンテンツを追加しました。 社内報や講演、あるいは日記や手紙などに残されている、加藤馨氏ならではの優れた考え方が凝縮された言葉を紹介しています。経営に関する言葉、あるいは人生や生活に関する言葉など、いろいろな言葉を…
ものがあふれる時代の商い
当研究所で何度も紹介しているように、加藤馨氏は故郷の神奈川県・千木良村(現 相模原市)を離れ、軍人として生活したのち、水戸(当時は吉田村)でラジオ修理店を始めました。これが後のケーズデンキへと成長します。 加藤馨氏が創業した戦後間もない時代は、とにかく物資がなく、ラジオを修理したり、電球を販売するこ…
引退後の加藤馨氏の交流
加藤馨氏の残したたくさんの資料には、手紙やはがきなども含まれます。軍在籍時代の同期生や教え子、戦後電気店を始めてからの同業者、故郷の恩師や学友、また兄弟をはじめとする幅広い親族。いろいろな人とのつながりを大切にしてきた加藤馨氏は、体力的に遠出が難しくなってからも手紙のやり取りを続けていました。また、…
孤独というより孤高な経営者像
加藤修一氏と長く一緒に仕事をしていた古株のケーズデンキ元社員でも、加藤修一氏に会うと「やっぱり緊張する」と話します。普段、研究所で加藤修一氏と話し、加藤修一氏の人柄を知る研究所メンバーとしては、どうしてそんなに緊張するのかと不思議に感じます。 理由を考えてみると、それは加藤修一氏が決して社員と慣れ合…